涼宮ハルヒの憂鬱第9話 サムデイ イン ザ レイン
タイトルを訳すと「ある雨の日」になるのかな。ハレ晴レユカイのフレーズ「ある晴れた日の事」と対比させて付けたタイトルでしょうか。
脚本谷川流先生で注目された今回、SOS団の日常を描いただけでした。
出来事も例の電気屋にストーブを取りにいっただけ。最終話としてはパンチが弱いな。
たぶん谷川先生は「本当になにも起こらない平凡な一日」を描きたかったのだと思います。
ハルヒの話は、短編にせよ長編にせよ何かしらの日常ではない出来事が起こって、それに沿う形で進んでいきます。
そこでは長門は宇宙人であり、朝比奈さんは未来人であり、古泉は超能力者でハルヒは自覚はないにしてもこの世界の
神である、そういう設定の元で進んでいくきます。が、
今回はその設定はまったく生かされていません。普通の高校生の友達同士が集まってゲームをして本を読んで過ごして
いる。そういった日常だけを描く話はありそうでなかった。普段はドタバタにぎやかに過ごしているSOS団が、
特別なにも起こらない日はどんなふうに過ごしているのか、見ている人間がとりあえずは持つであろう疑問への
解答じゃなかったのかなあ、と軽く思いました。ハルヒのいない最初の平和な部室は居心地良さそうだなあ、とか
思いました。
しかしよくよく考えてみるとキョンと古泉はひたすらゲーム、朝比奈さんはお茶を入れて編み物、長門はひたすら
本読んでいるだけ、とか普通の社会ではこれって完全なコミュニケーションブレークだよなあ。
『オイ、誰かしゃべれよ、空気重いじゃんか』『話のネタがないんだよ』
とかならなくていいのがSOS団のいいところです。ワイワイと楽しくみんなでトークだけが
コミュニケーションの形じゃないという事、一見バラバラに見えてもお互いを理解して個々の
キャラクターを発揮しているこの状態こそが彼らのコミュニケーションの形なんですよね。
こういう関係はけっこう憧れます。
- キョンが最後に長門を視界に納めながら眠りについたのも、長門がいれば安心できる=長門がいれば眠れる、という事なんでしょう。長門のキョンへの依存は相当高いけど、実はキョンも長門への依存度は高い。そこが萌える(マテ
- いちいち思うのは、押井守的な雰囲気が出ているように感じます。特に長門が本を読んでいる時に流れているラジオのシーン。都会の喧騒の中に紛れていく個の存在、みたいな演出を押井監督が好んで使うんですが、その演出に似てるんですよね。全体を流れるちょっとさびしげな雰囲気もパトレイバーの映画の雰囲気にちょっと似てる。
- 最後にお二人さん、どこのバカップルですか?
見直していて気付いたけど、最初のほうに出てきたノートパソコンの山は、あのゲーム対決への伏線?
つまり、12話=射手座の日なのか?